2011年03月02日

新公方足利成氏誕生と戦国乱瀬

久留里1000年の森 歴史


関東内乱・結城合戦  歴史シリーズ(8)

幕府や上杉氏に追い詰められ鎌倉公方足利持氏が自害して、永享乱が終焉します。事態を見届けて六代将軍足利義教は適子を不在となった鎌倉府へ下向させようとします。
管領上杉憲実も持氏を自害に追い込んだ事で、自身を諌めて管領職を隠退する事を決めて伊豆へ退き、関東地方の支配権は幕府が握る事と思われていました。


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持氏方武将遺恨を残す

持氏方に属した諸将の遺恨は拭われず、持氏自害の翌年にあたる永享12年(1440)3月3日、持氏の遺児、安王丸と春王丸が常陸国木所城にて上杉憲実の討伐と鎌倉公方の復活を掲げて家臣ら共に挙兵に及んだのである。その後下野国の結城氏朝を頼り、結城城に入城しました。


この情報を知った将軍義教は隠退していた関東の実力者、憲実を復活させ上杉一族の決起と諸将の求心力を促す為に復帰を求めました。幕府の命を受けた憲実は鎌倉に戻り、山内上杉、扇谷上杉、犬懸上杉らと、5月に入り早々出陣しました。幕府軍は駿河国今川範国、越後長尾実影、信濃国小笠原政康、甲斐国武田信重、上総、下総千葉胤直ら軍勢が結城城を目指して進発しました。そして北関東勢武将(宇都宮氏・小山氏・那須氏・佐竹氏・小田氏・岩松氏)一族は諸氏が分裂を起こした結城合戦でもありました。



将軍義教が関東で信頼を持つ上杉憲実は伊豆にて隠居しておりました。
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持氏方武将結城城に集結

幕府軍を迎え打つ、持氏の遺児、安王丸、春王丸兄弟、結城氏朝、持朝親子、結城方に参加したのは下野国の宇都宮氏・小山氏・那須氏、常陸の佐竹氏・宍戸氏・小田一族の筑波氏、上野国の岩松氏・桃井氏、信濃国の大井氏などで(小山広朝、宇都宮氏、岩松氏、佐竹氏)は一族を二分した戦いとなりました。
また持氏方、木戸持季、一色予六郎、桃井憲義、里見家基、梁田氏、他に永享の乱で戦った諸将の庶子らも入城し防備を固めたました。そして古河城や関宿城、野田砦などの支城群が連携をとって支援する態勢で向い打ちます。



幕府軍・大軍勢でせまる

幕府軍の攻防は大軍勢で防衛網を次々と切り崩しながら進軍し、8月上旬に結城に着陣しました。そして結城城を包囲し大きな遭遇戦、攻城戦もなく両陣営は同族、同士が双方の陣営に付き戦ずらかったのか戦は長引き兵糧攻めにして包囲を続けたまま年を越をこし、食糧が尽きるのを待って、
永享13年、嘉吉元年、1441に幕府軍は一揆に結城城に徹底抗戦で攻撃を駆けて行きます。


結城軍敗れる

此れを受ける結城氏朝は城から打って出て、幕府本陣を目指し突進するが多勢に無勢の戦に敗れて自害します。これと同時に城の櫓から火があがって延焼、結城城は鎮圧され落城しました。
戦いのさなかに、変装し安王丸と春王丸は脱出を図りまいたが、長尾実景に捕えられ、京都に護送される途上で美濃国の垂井で将軍・足利義教の命で斬殺されました。

安王丸と春王丸はゆるされず斬殺させられます。


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永寿王丸(成氏)難を逃れる

一方持氏の第四子・永寿王丸(成氏)の母は梁田氏の娘で、結城合戦では母と共に実家の梁田氏へ身寄せて難を免れました。その後成氏は信濃佐久郡の大井持光の元で成長します。永寿王丸の捜索は将軍の命令よっておこなって居りましたが「嘉吉の乱」で足利義教は赤松満祐に斬殺され、成氏の捜査は、あいまいになってしまいます。


越後守護・上杉房定 鎌倉公方成氏を鎌倉に返す。

鎌倉府は文安4年(1447年)8年の間不在となり幕府の支配下となります。
関東では永享の乱以来の争いが絶えず、関東、諸将の平定を願い北関東諸将が上杉房定に公方の復帰を願いでます。要望に応える形で越後守護・上杉房定が幕府八代将軍義政に嘆願し是を許されました。これにより持氏の子足利成氏は幕府から赦免されて、鎌倉公方に復職する事ができました。
関東は再び鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉憲忠(憲実の子)によって再興されます。/strong>


鎌倉御所に足利成氏が着任する
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鎌倉公方成氏襲われる

公方足利方と管領上杉方は永享の乱、結城合戦など遺恨が拭われずに、双方の武士団の領土の争いや権力闘争が起こり、長年の政情不安は治まらずに日を追うごとに高まり、宝徳2年(1450)、江ノ島合戦が起こります。上杉氏の重臣である長尾景仲、太田資清らが成氏の御所を襲撃したのです。この時、成氏は鎌倉から江の島に避難し、幕府や成氏方、武将ら小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱・武田信長らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けました。

江の島より  鎌倉方面を望む景観
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長尾景仲、太田資清に鎌倉御所を襲われ、足利成氏は江の島に逃れる
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鎌倉公方成氏相模の国鎌倉をさる

享徳3年(1454年)、足利成氏方、結城成朝、武田信長右馬助、里見義実民部少輔、印東式部少輔らが鎌倉御所にて襲い上杉憲忠誅伐事件が勃発します。翌年に上杉一族が打倒・成氏を掲げ、扇谷上杉持朝の連合軍は鎌倉御所を攻め滅ぼそうと出陣しますが御所を守る一色宮内大夫、武田信長に遭遇して大将上杉持朝は相模国島河原(平塚市)にて大敗してしまいます。事態を知った持朝の子扇谷上杉家当主の顕房・長尾景仲は武蔵府中の分倍河原や高幡に軍を集結して戦に臨見ますが、武勇優れる成氏方武将の前に犬懸上杉禅秀の子憲顕は高幡で敗れてしまいます。扇谷上杉持朝の子顕房は武蔵由井(八王子)に追われ自害し果てます。そして上杉軍先鋒の大石房重も戦死します。成氏軍は分倍河原合戦に勝利した後に、関東で公方に対抗する上杉勢を攻め立て成氏は自から長尾景仲の小栗城を攻め落城させます。下総に進軍し各地で善戦を治める最中に、幕府から派遣された1455年(康正1)今川範忠、幕府軍が鎌倉を守備する成氏方武将を破り御所は陥落します。

幕府追討軍や上杉一族が鎌倉を占領した事態を知った成氏は鎌倉へ戻ることを諦め、下総国古河(現茨城県古河市)に布陣します。此の出来事により下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国が古河公方足利成氏を支える豪族諸将の勢力圏となり、房総半島では上総武田氏、酒井氏、土岐氏、下総千葉一族(馬加系)、原氏、安房里見氏、下総梁田持助らが半島を固め上杉方の侵略を防衛します。梁田満助は鎌倉で持氏とともに自害した重臣で満助の娘が持氏の妻であり、その子供が公方成氏で外戚でもありました。満助の子持助は武田・里見・結城・小山氏とならんで公方成氏方の重臣となり、公方の求心的な役目を演じて行きます。

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一方、長禄2年(1458年)、将軍義政は弟、足利政知を新たな鎌倉公方として東下させました。政知は伊豆の堀越に御座し鎌倉公方となり、東国全域の統治をもくろむが、古河成氏方勢力が強大であり関東武士団は従来から続く鎌倉公方に拘りもあり、政知を受け入りがたい状況に有りました。足利政知は京都から付き添った重臣渋川義鏡を管領とし、東国支配の足がかりとして上杉氏一族が所領下に治める、上野国・武蔵国・相模国・伊豆国 を勢力範囲を臨むが、上杉一族や関東諸将がこれを認めず伊豆国にとどまります。
   
(室町時代の歴史背景が房総半島に重要な係わりを持つ事になります。)
posted by キミジィ at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代結城合戦(8)