2011年07月15日

里見義弘の第二次国府台合戦から三船山合戦の復権

上杉謙信越後に去る


永禄4年(1561年)6月に入り上杉兼信が越後に帰ると、北条氏は一時的には窮地に陥ったが、氏康の要請をうけ盟友・武田信玄が北信濃に侵攻。川中島に海津城を築き、謙信の背後を脅かした。この事態に呼応して氏康は急ぎ出陣、北関東に攻め入ります。(氏康の子氏政は母親信玄の娘)上越後に帰還した謙信は第4次川中島の戦いで武田信玄と戦って双方に甚大な被害が及びます。

冬の越後 豪雪地帯 謙信もこの季節には越後に留まりました。(熱いので涼しい写真を載せました)
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春を待つ越後の桜
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上杉謙信が越後に帰ると氏康、氏政親子は武田信玄の川中島合戦に呼応して北関東方面に侵攻し上杉方武将らの領土奪還に奔走します       


小田原城のお堀
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幕府将軍の許しを得て古河城に着任した古河公方足利藤氏(母は梁田の娘)を北条氏康は公方として認めず足利晴氏と、氏康の妹が生んだ足利義氏を古河公方に推し藤氏を認めませんでした。そうした中で、永禄五年1562)越後に謙信が帰国すると直ちに北条氏が反撃を開始し、その年の10月には古河城を攻撃したので、藤氏は難を逃れ、謙信との同盟、上総池和田城の里見方多賀氏の元へ逃れます。弟の藤政・家国ら姉妹(後の梅王丸の母)も含む兄弟が上総へ逃れて里見義尭・義弘父子の保護を受けたのです。

その年暮れには古河公方藤氏は謙信に救済を求める事になります。
永禄六年(1563)閏十二月になると上杉謙信は古河城奪還を目指すと共に北条氏康・武田信玄の同盟体制に対抗します。越後から再び出陣します。厩橋城(群馬県前橋市)に入り

謙信は上総里見義弘に兵糧物資を岩槻城に運ぶ依頼をします。
これに応じて里見義弘は、岩城・太田資正や江戸太田康資(太田道灌の孫)らと連絡を取り合い、安房・上総の軍勢を率いて北上して下総に入り、市川に陣を布しきます。

そうした動きを察知した北条氏康はこの里見氏の動きを下総小金の高城氏や江戸城からの知らせによっていち早く察知し急遽葛西城の固めを命じます。翌年正月小田原を発って市川の北方国府台に布陣して、翌七年(1564)正月、七日には岩槻の太田資正と里見義弘の軍勢が北条氏康らを迎え撃った。

小田原城中庭
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第二次国府台合戦、(1564)正月

緒戦で北条方の遠山直景、富永政家が先鋒で争いは始まり、迎え撃つ、里見方の正木時茂、太田康資の猛烈な反撃にあい遠山直景、富永政家は果敢に戦ったが激戦に敗れ両人とも討ち死にしてしまいます。苦戦をひいた北条方は一度は戦場を引き戦略を立て直します。
その夜、里見方は勝利に酔いしれていました。油断していると判断した北条氏康や北条綱成は夜陰にまぎれて軍を密かに移動させ包囲態勢をとって明け方に一気に攻め立てます。

不意を突かれた里見軍は逃げ惑い、義弘は敵方に囲まれ馬も射られ危機が迫る中で正木弘末や安西実元が見つけ搭乗していた馬を差出し義弘を乗せ退散させ、自らは敵将と戦い討ち死にします。正木時茂は自ら奮戦して少数の家臣と共に辛うじて逃れました。時茂の嫡子・弟らを討死させる戦になります。この戦では里見方武将里見弘次はじめ正木、武田、菅谷、多賀、本間、多くの武将や諸氏も敗れ戦死しました。一方の北条軍は合戦に勝利した威勢で敗走する里見軍を追って南下します。その先鋒は上総に入って椎津城を攻め落したが、この時点で、後ろに迫る上杉軍を意識してか、北条軍は深追いを避けました。この敗戦では第一次国府合戦の無傷での負けとは違い、里見氏一族が上総での存続さえ危うくさせる敗戦でありました。


里見氏の本拠地、久留里城を北条軍に攻め取られる。

北条軍はその後、陣を立て直して下総から上総へと里見氏や正木氏を追撃して侵攻してきたのです。池和田城(市原市)などを落とし、同年の六月には小糸川流域を守る重要拠点、秋元氏の小糸城が陥落します。そして里見義尭の本拠地久留里城までもが落とされ、北条軍は一気に上総の奥深くにまで進出して行きます。この攻撃を受け真里谷武田や長南武田が里見氏から離反したのに続き土岐為頼、大多喜城正木時茂の弟勝浦の正木時忠が北条氏側に属してしまいます。こうした事態を受け里見氏は半島に於いて大きな勢力と権力を失う事になります。里見氏は再び安房に逃げ帰る体制に追い込まれます。

豊かな土地と水に恵まれた地、久留里城から見る田園風景 里見氏は本拠地久留里城去る事になり、北条方小田小太郎が久留里城に入ります。
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こうした事態の中で義尭、義弘は大戸や千本木城に留まり、上総全域の陣を立て直す策を講じて北条軍との戦に備えて行きます。そうした中で義弘の妻(足利晴氏の梓姫)に梅王丸が誕生します、そして安芸守の妹が乳母を務めるようになります。里見義弘にとって東平氏は重臣でも有り厚く信頼する武将の一人で上総最後の砦を守る千本木城主でありました。

そして永禄9年(1566年)には里見義尭、義弘親子の復権を懸けて、上杉謙信は同盟する里見義堯を北条氏から救援するために関東へ出兵します。長尾顕長を総大将とする上杉軍は北条方の下総・臼井城を総攻撃しました。

北条方は千葉氏家臣・原胤貞を中心に防戦するが、この上杉軍の出兵により北条軍は劣勢に立たされる事態となり、北条氏康・氏政親子の房総半島攻略は里見氏の同盟、上杉兼信の援軍に阻まれる事になります。
こうした謙信から救援を受けた里見義尭・義弘は北条方に奪われていた本拠地久留里城や周辺の城を奪還し里見氏は息を吹き返します。

翌年の三船山の戦いでは、北条氏の関東制覇の夢を打ち砕く合戦が起きて里見は 上総での復活を唱える事になります。
そして千本木城は北条軍の進行を防ぐ砦となって、里見義尭、義弘親子の復権を大きく支え、西上総奪還、攻略に大きく貢献する城となりました。

そうした支えと里見氏の盟友で親族関係である正木氏との連携に寄って上総での復活を徐々に図り三船山合戦に繋がって行きます。


里見氏、上総守りの最後の砦 千本木城 久留里と亀山、中間の山頂にある城跡です。

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背水の陣、三船山合戦


一方の北条氏康は、国府台合戦で勝利した後、里見方に対する戦略拠点を南下させてゆきます。
上総の守りを固めて里見氏の滅亡を目して三船山に砦を築き藤沢播磨守、田中美作らを布陣させ里見氏らに圧力を強めて行きます。

これに対抗して里見や正木が逆襲を仕掛ける計画を知った、藤沢播磨守は北条氏政に援軍を要請、永禄十(1567)年八月、北条氏政は大軍を率いて三船山に着陣、里見義弘と対峙しました。

此の争いでは三船山の地形やこの季節の天候を熟知した里見義弘や正木憲時らの真夜中から朝方に掛けた濃霧、中の奇襲作戦によって北条軍は壊滅的な被害をだして、海へ山えと逃げまどい、北条軍は殿軍の岩槻城主・太田氏資をはじめ多くの武将を亡くし大敗を喫し、上総から北条軍は全軍退却させられます。この争いで北条氏は手痛い戦を強いられ、房総半島に於ける上総の勢力圏を失くします。