2011年06月20日

   戦国武将里見義尭房総半島に君臨する。

房総半島に戦国武将里見義尭・あらわれる

天文二年(1533)七月二十七日安房に於いて里見氏のお家騒動が勃発します。、里見家当主であった里見義豊は居城の稲村城(館山市)に正木大膳大夫、並びに伯叔里見堯実を召喚して誅殺してしまいます。


此の事件に関しては実堯、大膳が独自に海上路の確保を巡る争いで北条氏と密約を交わした事に端を発した出来事で誅殺事件は起きたのでは無かったのかと思われます。
1533年 天文3年安房国は里見堯実の子義尭を北条氏綱が支援しての内紛介入で天文三年(1534)主家 里見義豊を討ち取ります。里見主家が滅亡し北条氏の戦力を借りた義堯が里見家の家督を継ぐ事にまります。


鎌倉時代以前から続く丸一族の菩提寺でありましたが、里見義堯が義豊との戦の中で多くの戦死者を出し双方の霊を供養をする目的で義尭の命により、長男里見義舜を多宝塔の創建役にあたらせました。天文14年(1545年)建立、石堂寺多宝塔は里見義堯ゆかりの塔として知られます。

P1020579.JPG


戦国乱瀬には豪族一族同士の争いが多く見られ下剋上が起きた時代でもありました。

戦国時代には同族同士の争いも多く、足利氏一族も他ではありません、叔父小弓公方義明との領土の争いや権力争いでの対立は激しさを増してゆきます。
古河公方晴氏、妻の実家である梁田氏の拠点の関宿城も小弓勢の脅威にさらされました。劣勢となった公方晴氏は北条氏綱の娘を迎え入れて小弓公方に対抗する手段を取ります。北条氏と親族となり協力体制を敷いて叔父の小弓公方足利義明の打倒を北条氏綱に命じます。



第一次国府台合戦勃発

そして第一次国府台合戦に繋がって行きます。古河公方連合軍北条氏綱・子氏康と対する、小弓公方連合軍との対戦が勃発します。此の戦では、里見義尭は北条氏から離れ、一転して小弓軍として戦います。当初は小弓公方軍が優勢であったが、兵力で勝る北条軍が劣勢を撥ね退け進撃して争いとなり果敢に挑む、義明の弟 足利基頼が北条方武将に打ち取られてしまいます。義明の子 義純が相次いで討死してしまいます。戦上手な北条氏の前には歯が立たず小弓軍は劣勢に立たされます。
それを見た、義明は堪らずに雑兵を率いて敵中に挑み、わが子を救わんとばかり無謀な突撃をしますが、後陣を支える部隊は現れずに義明は敢え無く、北条方三浦城代弓の名手横井氏の矢に射抜かれて戦死します。総大将を失った小弓公方義明連合軍は総崩れとなり此の戦で多くの小弓方武将が討死し房総半島での小弓公方の支配は終焉を迎える事になります。
この戦いで戦勝した北条氏綱・氏康親子は千葉氏、原氏、武田氏、酒井氏ら、房総での豪族は北条氏に従属しました。金沢に逃れていた、武田信隆が家督として復活し上総に帰りました。しかし武田一族の弱体化は否めず急速に房総武田氏の勢力は弱まりました。房総半島安房国では第一次国府台合戦で敗れた里見義尭は安房で新体制を固めて後に北条氏に挑みます。

小弓公方義明の残された子供は安房丸山石堂寺にて里見義尭の庇護を受ける

石堂寺山門
P1020585.JPG


義明の子供は里見氏の庇護で育つ

第一次国府台天文七年(1538)の戦で北条軍に敗れ足利義明死亡、弟基頼、長男義純が戦死、また多くの小弓公方足利義明連合軍は敗れ足利義明の房総半島での支配は終りを告げる事になります。一方で家臣らと落ち延びた足利義明の子供四人らは里見義尭を頼り安房に逃れ、一行は丸山の石堂寺に匿われ庇護を受けることになりまする。

P1020583.JPG