2011年06月11日

関東地方に君臨する戦国北条氏

関東に置ける役目を終えた伊豆の堀越公方足利政知は、1491年に病死します。

後継者に指名されたのは二男足利潤童子でありました。母親は足利政知に寵愛されて、子の潤童子も優遇を受けていました。これを不服とした潤童子の異母兄で長男の茶々丸は潤童子とその母親を殺害するという暴挙にでます。此の振る舞いは幕府も認めませんでした。
しかし茶々丸は二代堀越公方を名乗りますが、従来からの凶暴な振る舞いから、家臣団の支持を得られず孤立、2年後、駿河国今川氏方武将、興国寺城主の伊勢新九郎(北条早雲)によって急襲され、茶々丸は自害に追い遣られます。


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室町幕府11代将軍・足利義澄誕生                                 京都銀閣寺
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先に都に逃げ延びた足利政知の三男は出家して、法名を清晃と名乗りますが、幕府管僚細川政元は伊豆で育った性格の穏やかな、清晃を還俗させ義澄に改め、室町幕府11代将軍・足利義澄とします。
実質的権力は細川政元が握る事になります。



(細川氏が繁栄する時代に造られた京都竜庵寺)竜安寺石庭
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                  京都竜安寺 苔の庭
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関東での新体制はかる

関東では成氏の子足利政氏と関東管領山内上杉顕定という新体制で、関東の平定が整えられてゆきました。
政氏は実の弟顕実を上杉顕定の養子にして次期管領候補にします。
そして嫡子高基の弟(後の義明)を鶴岡八幡宮別当の雪下殿として、関東支配の体制の回復を図り初めました。


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越後で京幕府から最も信頼が深い越後守護・名将上杉房定亡くなります。

上杉房定は関東を平定してゆくうえで重要な役を演じていました。こどもの顕定を山内上杉に養子だし関東管領山内上杉顕定誕生させ親交の深い足利成氏を影で支えて来ました。

関東の安定期を迎える半ば東国で越後守護を巡る争いが起きます。長尾為景が(謙信の父)、永正4年(1507年)上杉定実を擁立して、守護上杉房能(顕定の弟)を急襲します。
房能は兄の関東管領上杉顕定を頼り関東への逃亡を図ったが、天水越にて捕らわれ自害させられる事になりました。

関東内乱が再び起きる

事態を知った関東管領山内上杉顕定は越後に攻め入り、長尾為景と戦い一度は大勝するが、長尾方援軍の高梨政盛(為景の外祖父)の助力もあり越後長尾一族が決起し長森原の戦いにて顕定が敗れ戦死すると管領山内上杉家でも家督争いが始まります。
これに端を発し、古河公方足利家でも親子の争いが勃発します。政氏は上杉顕定に養子に出した弟顕実を支援し、高基は養子の憲房(上杉憲実の子)を支援した為に、公方家と関東管領家にまたがる内紛に拡大して行きます。



伊勢新九郎・好機を逃さず公方高基に支援


政氏の嫡子高基は永正年間に父政氏との抗争を繰り返し、永正七年(1510)に始まる三度目の抗争は、足利高基が関宿城に移って管領上杉顕定の養子憲房らと組み、父への敵対行動を取ります。永正九年には、古河城に攻め入り父政氏を追い出して公方の実権を継承してしまいました。

これらの抗争の間隙をぬって、伊豆韮山を根拠とする伊勢(早雲)が台頭し扇谷上杉氏と争います。足利高基は永正十三年(1516)に扇谷上杉氏の領国相模国小田原所領を奪い取る事を伊勢氏(早雲)らに命じます。明応七年扇谷上杉方の重臣である大森藤頼を破り小田原城を奪います。


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公家の内紛を好機と捉えて早雲は足利高基に急接近して行きます。

小田原攻めから、公方足利高基は鎌倉を占拠し北条氏綱に命じ扇谷上杉の相模領国を次々に落として行きます。(1516年)に氏綱は玉縄城を築き、相模国や房総半島にも領土を持つ鎌倉時代からの名門三浦氏を破り三浦半島を奪い領土の拡大を図ります。扇谷上杉氏の重臣、三浦道寸(上杉の養子)を滅ぼし、対岸の房総半島を支配する上杉方や三浦氏が所領とする地域に対しても侵攻を開始して行きます。

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こうした北条氏の一連の活躍に対して足利高基は嫡子晴氏と北条氏綱の娘との婚約を決めます。北条氏の関東における勢力は管領上杉を凌ぐ力となって行きます。

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(1516年)には上総の茂原に侵攻、(1517年)には上総真里谷武田氏の求めに応じ庁南武田氏に加勢し北条氏綱が戦に臨み、三上佐々木氏の真名城(茂原市真名)を攻略します。

そして庁南武田氏と長年領土で対立する、原胤隆・原虎胤・高城胤吉らを破り、武田氏が氏綱の援助を得て小弓を攻略します。

後に小弓城には古河公方足利高基の弟が鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)空然として僧籍にあった弟が父と兄が対立するに及び、下野に移って宗済と改名します。

その後還俗して名を足利義明と改め房総半島の平定にと上総国真里谷城主の武田信清が招き、同族の庁南武田氏と再び原胤隆氏らとの争いを避ける手段として足利義明を御所に取立て、房総半島の安定を図ります。房総半島に小弓公方の権威が及ぶようになると小弓公方義明の支持勢力は真里谷氏、庁南武田氏、里見義通の嫡子義豊らになります。

古河公方高基、四代公方晴氏にも敵対するようになって行きます。永正16年(1519年)、危機感を抱いた古河公方・高基は千葉勝胤に命令を下し岩富城(佐倉市岩富)を拠点に、小弓公方義明の守り固める上総の椎津城(市原市椎津)を攻撃、これと同じく北条氏綱が茂原への侵攻がありました。
また上総の佐貫でも北条方武将らの大乱が起こりますが、義明は、これらに対抗し臼井氏の和良比城(四街道市和良比)に進軍させ里見義通には古河の重要拠点、関宿城の攻撃を命じています。

享禄四年(1531)頃には晴氏は父高基とも抗争に発展します。高基は武力によって公方の地位を奪われてしまいます。晴氏は北条氏に接近した高基とは思想の違いがあると共に、晴氏を支える武将らは北条氏との共存を望みませんでした。そして親が決めた、北条氏綱の娘との結婚もせず、公方家の重臣簗田氏の娘を貰い受けます。北条氏との距離を置きます。(その後北条と結び付く事になります)
posted by キミジィ at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 関東を制覇する北条氏(13)