2011年06月06日

大田道灌、関東にて台頭する。


鎌倉を去った成氏は古河公方として北関東の戦国時代を生き抜きます。

北関東に一大勢力を築いた成氏は、関東各地を転戦し、上杉方武将らの領土を奪います。
これら争いで戦功を上げた武田信長、信高親子・土屋景遠・里見義実らは古河公方成氏より厚い信頼を得て、成氏の命によって、康正二年(1456)武田右馬助信長は上総国守護代を授かり、子の信高や土屋景遠、(禅秀の乱で相模国の領土を失った武将)らも土屋景遠に従い上総へ侵攻したと思われます。古河公方成氏が占領し治める上総地方の所領は犬懸上杉一族が長年に渡り守護を務めた領土でもありました。上総守護犬懸上杉朝宗の子・上杉氏憲(禅秀)は甲斐の守護武田信満と同盟を結び禅秀と供に戦いました。禅秀の妻は武田信満の娘でもあり武田氏は 南北朝時代、上総国市原郡( 市原市)領土をもっておりました。そして長年犬懸上杉が守護を治めた地方でありました。武田信長の上総入りは、こうした過去の経過を十分考慮に入れた占領で長南氏との小競り合いは有った物の、大きな争いは無く侵略できたと思われます。これも足利成氏方の軍事的、政策だったかも知れませんネ!!


千葉氏内乱と房総半島に古河公方足利成氏の命によって武田氏や里見氏が房総入りする。

享徳3年6月23日(1454)胤将が死亡すると、千葉宗家胤直は一変して幕府や上杉氏に加担します。これに対して馬加氏は成氏を支援する事を主張して、千葉一族の内紛が勃発します。これと同じく千葉宗家胤直の筆頭家臣ら原氏と円城寺氏が領土を巡る争いによって対立が激化します。千葉宗家は重臣の争いも含めて複雑な争いとなります。馬加康胤が千葉宗家を破る下剋上を呈する時代でもありました。その中で成氏軍は上杉らの間隙を付いて、武田信長が上総に進行します。

上杉氏に服属していた長南一族の領土、「学問の神様、菅原道真の子孫は房総半島に九〇〇年ころに都から派遣され現在の役柄としては県知事の役で着任し九三四年に上総の国長柄郡の三途台付近(千葉県長南町)に住み着きました。」長柄郡の南部の領主となった菅原滋殖は長南次郎と名乗り代々一族が住み着いた領地でもありました。武田信長親子は庁南や真理谷を侵略して行きます。長南氏は千葉氏との親戚で同盟関係でもありましたが、長南氏や千葉一族の諸氏豪族らの大きな抵抗も少なく領土を急速に拡大して行きます。そして上杉方の攻めに備へ、庁南城は上総東地域の守りとし、真理谷城は上総西部の守りを固め、さらに久留里や椎津・造南・峰上・笹子などに城を築きます。武田信長が上総へ侵攻した事で、成氏方の重臣である里見義実は成氏の命に従い、房総半島の海上路を上杉方から奪い、海上交易路の確保と房総半島内陸の守りを固める作戦で古河公方成氏軍の梁田持助や地方豪族の安西氏、丸氏、武田信長らの協力によって安房に侵攻したと思われます。

里見義実の半島入りは武田信長と供に行動して上総入りしてから安房に渡ります。そして武田の娘が里見に嫁ぎ親族でもありました。そして安房で足利成氏の所領を守る梁田氏や足利成氏に従う、安房の豪族や上杉氏に所領を奪われた武将や安西氏、丸氏らが、足利成氏の元に結集し成氏方の家臣である義実が安房の重要な守りを命じられます。それによる勢力にて、上杉方勢力を制して安房に侵略して行きます。安房を守る上杉氏の家臣らは成氏側による圧力や凋落に寄る作戦で、豪族神余氏や白浜を守る上杉氏の家臣木曽氏は、大きな抵抗も無く上杉の元を離れ成氏方里見に属していきます。

康正二年(1456)古河公方成氏軍・里見義実が安房全域を比較的早い段階で傘下に収め房総半島での海上路の確保と内陸部の守りを武田氏・梁田氏・千葉氏(馬加系)が勢力を結集して、幕府・上杉方の攻防に備えます。そして古河公方軍の一大勢力は幕府より関東統治のために派遣された、伊豆の堀越公方足利政知(将軍義政の弟)や両上杉一族との争いにも立ち向かう体制が敷かれる様になります。古河公方成氏と両上杉勢力との対立は、益々激しさをましていきます。武蔵国の防衛では、両上杉派は江戸城・川越城・岩付城・五十子陣などの陣を構え対峙します。一方の古河公方成氏は古河城を主城とし騎西城・関宿城・栗橋城を守りのかなめとし武蔵と下総の国境を挟んだ両者の合戦は三十余年にわたって東国は戦乱期を向える事になります。

長尾景春と古河公方が同盟を結ぶ

こうした争いの中で(長尾景春の乱)が勃発します。守護代長尾景信が死去し家督を父親から引き継ぐ筈の景春が守護代に任命されず傍流の叔父長尾忠景を執事に任命します。山内上杉顕定は生前長尾景信に政務が一元化され権力を家宰の景信に握られていた事で、山内上杉家に於ける白井長尾の隆盛な権力維持の継承、これを嫌う顕定は白井長尾家の勢力を抑える為の処遇でもありました。景春はこれに対して不満を抱き、顕定や叔父忠景を憎悪するようになります。

文明8年(1476年)6月、景春は武蔵国鉢形城にて反旗をあげます。翌年には、敵将古河公方成氏との戦に用いた防衛拠点五十子の陣を急襲し両上杉を撃退して大勝利を挙げます。上杉顕定・定正との景春の争いは下剋上を呈した戦の始まりでもありました。長尾景春は山内上杉を取り潰す執念を抱いた争いでもあり、この争では、上杉と敵対していた古河公方成氏方と影春が同盟を結び、両上杉氏と戦います。景春の乱では、上杉一族に長年に渡る所領に絡む争いなど、鬱積した不満から相模国や武蔵国の豪族諸将らも影春に味方しました。この争いで景春は山内上杉顕定の支配下にあった所領を占領して行きます。

扇谷定正の執事大田道灌の台頭

これに対抗する扇谷執事大田道灌は文明8年(1476年)2月、駿河守護今川義忠が遠江で討ち死にした事で家督をめぐって叔父の伊勢盛時が遺児の龍王丸を跡目に推挙した事から、従兄の小鹿範満は(犬懸家)の娘を母としており、堀越公方の執事上杉政憲に支援を要請し上杉政憲・道灌は範満を家督させる事で兵を率いて駿河に入った。この今川氏の家督争いは、龍王丸の叔父早雲が仲介に入って、範満は龍王丸が成人するまでの間家督代行とすることで和議が成立したが、東関東では、長尾景春軍は大田道灌の不在に乗じて上杉方の河越城と道灌の江戸城を結ぶ連絡路を分断し、景春方の溝呂木城や小磯城などと小沢城(愛甲郡)の諸城と結んで包囲網に布陣を整えた。

事態を知った道灌は駿河より急ぎ帰還し、江戸城や河越城の守りを固め反撃に転じます。道灌は包囲網の一角である相模国、溝呂木城や小磯城を攻め落とします。そして小沢城を武蔵上杉方ら援軍得て攻め落として行きます。その後に武蔵国勝原で太田道灌軍は景春軍と全面対決をして戦い、長尾景春は敗れて退きます。 道灌は文明9年(1477)4月13日、景春と同盟を結ぶ豊嶋泰明の武蔵の国平塚城を攻撃します。事態を知った石神井城主兄豊嶋泰経が救援に馳つける途中、江古田原沼袋にて太田道灌軍 三浦義同・上杉朝昌・武蔵千葉自胤らと遭遇します。この戦で豊嶋軍は惨敗を喫し、豊嶋泰経は石神井城に退きます。

後に平塚城で再起しますが翌文明10年(1478)正月25日には、この平塚城も道灌によって攻め落され、豊嶋泰経は小机城にのがれるが、道灌に包囲され小机城も落ちてしまいます。これによって、平安末以来、武蔵・相模国に勢力を誇った豊島氏の所領や影春に加担した諸将の領土を傘下に収め、扇谷上杉方の大田道灌が所領を拡大するようになり、扇谷上杉は山内を凌ぐ勢力となっていきます。

越後守護上杉房定の仲介にて上杉氏と公方成氏和睦

一方古河公方成氏と管領上杉顕定の対立は二十年という長い時を経て文明十年(1478)に越後守護上杉房定が介入して足利成氏と上杉顕定が和議の成立で収まり、長尾景春も成氏の説得にて鉢形城に一度は帰還しました。しかし上杉との和睦で武蔵千葉氏の台頭を危惧する下総千葉孝胤(馬加系)は異を唱え停戦には従わず長尾景春と同盟を結んで上杉氏に対抗しました。これを討伐するため、太田道灌は古河公方成氏の許しを得て、太田道灌は千葉自胤らを連れ国府台城に着陣し、両軍の戦闘は勃発します。

古河公方と上杉氏の和睦、後の関東内乱

境根原合戦での戦では太田道灌軍に千葉孝胤は大敗し、軍勢をまとめて退却し、逃れて臼井城に籠った。道灌はこれを許さず甥の太田図書資忠を武蔵千葉自胤につけ、長躯臼井城を攻撃した。翌文明11年(1479年)1月、臼井城が陥落するが、此の戦では孝胤らの決死の逆襲を受け、太田道灌の右腕とも言われる太田図書助資忠が戦死します。また多くの道灌軍の武将を失います。

此の戦で自胤は一度撤退を余儀なくされたが、下総・上総で千葉孝胤に加担する諸将勢力は大田道灌軍に敗れ領土を追われてしまい、孝胤や原一族も混乱にまぎれて逃走します。この戦で孝胤に加勢する成氏方の上総の長庁武田や真里谷武田氏にも大田道灌・武蔵千葉自胤は宣戦し、上総の両武田は大田軍に下る事になります。こうして扇谷上杉は下総や上総にも領土を侵略して、一大勢力圏を築きます。こうして領土拡大を図る大田道灌に対して疑念を抱いた管領山内上杉顕定は扇谷定正に対して道灌は脅威となり兼ねない人物になると入れ知恵します。


太田道灌 糟屋館で暗殺される

(1486)年8月25日)定正の糟屋館(伊勢原市)に招かれ道灌は暗殺されてしまいます。この事件の後には太田道灌の後ろ立てを失った、武蔵千葉自胤は再び上総・下総への侵攻を目ろむが、上総・下総で千葉孝胤(馬加系)を支持する諸将が勢力を盛り返し、太田道灌亡き後は両上杉方に反発する下総千葉一族や原氏らが再び台頭し、武蔵千葉自胤の房総半島入りは果たせませんでした。こうした最中に上杉両氏の内紛が勃発します。

山内上杉顕定は扇谷定正に相談も無く単独で和議を取り交わし定正を無視して文明10年(1478年)正月成氏との和睦を相談なく決めた事に端を発し、不快感を抱いた定正が山内顕定の政策に異を唱え、両上杉氏の確執に発展して行きます。一方文明(1483)年1月6日)幕府は古河公方成氏との和睦による事で、関東地方での政策として関東において伊豆・堀越公方の権威や存在が薄れることになります。関東に於いて扇谷・山内両上杉の争いは、山内顕定は越後の父上杉房定に援助を求め、扇谷定正は古河公方足利成氏・子政氏と同盟を結び争います。

扇谷上杉の重臣大田道灌の嫡子資康は相模国糟屋の館で父を殺害した扇谷定正を恨み、山内上杉顕定を頼ります。両上杉氏の抗争は、長享元年(1487)の下野足利荘勘農城の戦いに始まって以後、二十年近くにわたって争い(長享年中の乱)が繰り返されるのである。その間、古河公方成氏・政氏親子は、明応三年(1494)には扇谷支持から山内支持へとまわってしまいます。そして扇谷上杉氏内部の抗争がはじまり、永正二年(1505)にようやく扇谷上杉氏の敗北というかたちで和解したのです。
posted by キミジィ at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 房総半島古河公方成氏(12)