2012年01月18日

房総半島、歴史三船山合戦より先はどうなったの!!

今年もブログ見てる皆さん里見氏大河ドラマ放映を応援しよう。

最近キミジィの歴史紹介で三船山合戦後どうしたの!!質問に

里見義弘と里見義頼との親子に付いて調査するが、此の親子は義尭の子を義弘が養子に貰い受けた書物や最近では義弘と青岳尼との間に出来た子が義頼などの説が生まれたり、キミジィは八代目里見義頼の代に進めません。

石堂寺本堂
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それは青岳尼が義頼の母となると、安房石堂寺にて匿われた、足利義明亡きあと次男足利頼純らが石堂寺にて里見義尭の庇護の元で秘かに暮らし育った、頼純も成人し子を儲けます。こうした時代に義頼も安房で育ち青岳尼の弟足利頼純ら親子と交流があったと思われます。長女島子、次女、木連川当主となった国朝、頼氏、次女は青岳尼の妹(伯母東慶寺十七世)に従い尼となり(鎌倉東慶寺十九世)里見義弘の妻青岳も石堂寺で育つ子供らとの付き合いもあったと思われます。義頼が青岳尼の子となれば小弓系足利氏との関係は深かったと思われます。

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そして一五九十年、長女島子は喜連川城主塩谷惟久に嫁ぎます。秀吉の小田原攻撃の参陣の遅れで怒りを恐れて城から塩谷惟久が逃れてしまいます。島子は塩谷氏が二心の無い事を秀吉に願い出るが叶わず秀吉は願い出た島子が足利の血筋を引く姫君で、あまりにも美人な島子にほれ込み、奥州平定の対応に同行させられます。その後秀吉の上洛に従い聚楽台にあがり側室になった。此の事に寄り秀吉の意向受け弟国朝が足利家として喜連川に城を授かります。こうした出来事から里見義頼も秀吉の側室島子との親戚関係から里見義頼が秀吉との接触が生まれたのではないか、後の義康も足利家との繋がりがどうであったか推測するときりがありません。

後に秀吉の命により古河足利家義氏の娘を貰い小弓足利家を再興させて足利家を存続させます。此の出来事を成し遂げたのは秀吉側室島子でした。そして秀吉が亡くなると徳川家康から厚い信頼を得て家康の姫に使えます。

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里見義弘と青岳尼の間に誕生した子が(義頼)なると小弓系足利一族と里見義頼の強い絆が見えてきます。そして里見義尭、義弘、上杉謙信関東管領の亡き後に、小弓一族に取って許し難き相手にあった。古河公方晴氏や子らに恨みを持つ、安房小弓一族の反発で、天正8年(1580)梅王丸事件が起きてしまったのでなかろうか、その後、義頼や子の義康と小弓一族の関連など歴史の方向性が掴めぬまま筆が進みませんが、何故か石堂寺や石堂城、正木氏が義頼に敗れ去った後に大多喜城などに移り住んだ足利頼純などに答えがあるようで、お時間少し戴きお待ち下さい!キミジィの個人的意見とすれば青岳尼の子が義頼である事がドラマに面白さを増すのではなかろうかと思われます。歴史的にはもう少し研究が必要で資料の充実が不可欠となります。


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2011年12月03日

房総半島、久留里1000年の森 歴史戦国時代の里見氏NHK大河ドラマ放映、応援します。


久留里1000年の森は里見氏NHK大河ドラマ化放映を応援します。

ブログご覧の皆様応援宜しくお願い致します。



久留里1000年の森、歴史紹介で房総里見氏を連載して来ましたが、昨年「里見氏大河ドラマ実行委員会」なる組織が立ちあがった様です。キミジィの戦国時代史の里見氏、お時間が許せる時に眺めて下さい。実行委員会の皆さま頑張ってください。!!

久留里1000年の森 蝶舞い谷 撮影
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戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指し、このほど有志による「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織された。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市にはすでに同様の組織が立ち上げられ、里見氏発祥の地の群馬県高崎市にも組織が設立される見通しで、栄枯盛衰の地が連携して、NHK側にドラマ化を働きかけるそうです。 房州日日新聞2010年8月 記事転記より

久留里1000年の森では、房総半島を支配した、久留里城主里見義尭、義弘、親子を主に取り上げ戦国時代の歴史を紹介しております。この同年代では、関東の戦国武将の活躍は公方足利氏を主とし、関東上杉氏、太田氏、越後長尾氏、甲斐武田氏、伊豆今川氏、小田原北条氏、北関東佐竹氏、小山氏、結城氏、房総千葉氏、原氏、安房里見氏、正木氏、上総武田氏、下総梁田氏など関東の主だった、戦国大名が活躍した時代でもありました。





いくたびかの戦乱の中で小田原城主北条氏康や北条方豪武将北条綱成ら攻撃を撃退した。難攻不落で堅固な久留里城です。

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里見氏と足利家は古河公方初代成氏の家臣となり里見義実が安房白浜に布陣し城を構え代をかさねて、7代目里見義弘が義明の子、古河公方晴氏の子、2回の祝言を上げて足利家と姻戚を持ち深い関係となりました。

丸山町にある丸一族の菩提寺石堂寺多宝塔、5代目里見義尭、建立の塔であります。この寺で足利義明亡き後に義尭が残された子供たちを庇護した寺として現存する、お寺であります。住職の坂本さんとキミジィは知り合いです。

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2010年09月30日

戦国時代 久留里城主 里見義尭の居城

久留里1000年の森 歴史は飛鳥時代より室町時代後期までの歴史背景を準備しております。近日中に作成しブログ歴史シリーズに掲示いたします。

久留里1000年の森では戦国時代の歴史を主に紹介いたします。

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小弓公方足利義明(国府台合戦死亡)と共に闘った六代目久留里城主里見義尭、七代目久留里城主里見義弘に嫁入りした義明の姫や、江戸時代まで続いた館山城主十代目里見忠義まで、里見氏へ嫁いだお姫様を紹介します。また、ゆかり有るお寺の案内も企画をして行きたいとおもいます。

久留里1000年の森にお姫様の石像を建て、野外に歴史展示館を企画しております。

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戦国期に里見義尭が新たに、この地に城を築いて北条軍との戦に備えた
 
北条軍最強の武将北条綱成指揮する玉縄衆も長期に渡り攻めかけるが上杉謙信が関東へ進軍した事によって、難攻不落の城を落とせず、北条軍は引かざるを得なかった。
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    久留里城天守閣からの一望する景色は最高P1020568.JPG




2010年09月29日

久留里城主 七代目里見義弘 戦国時代の恋 


房総半島・戦国時代の乱世をこえて安房の長安山に静かにたたずむ多宝塔 
千葉県安房郡丸山町・石堂寺(いしどうじ)

石堂寺は神亀3年(726年)に行基上人の開基と言われております。

里見一族内乱
鎌倉時代以前から続く丸一族の菩提寺でありましたが、里見義堯が義豊との戦の中で多くの戦死者を出し双方の霊を供養をする目的で義尭の命により、長男里見義舜を多宝塔の創建役にあたらせました。天文14年(1545年)建立、石堂寺多宝塔は里見義堯ゆかりの塔として知られます。

小弓公方義明敗れる

第一次国府台天文七年の戦で古河公方足利晴氏方北条軍に敗れました。足利義明死亡、弟基頼、長男義純が戦死、また多くの小弓公方足利義明連合軍の武将も此の戦で亡くなり小弓公方足利義明の房総半島での支配は終りを告げる事になります。

小弓城から逃れた義明の子供達

家臣らと落ち延びた足利義明の子供四人らは里見義尭を頼り安房に逃れ、一行は丸山の石堂寺に匿われ庇護を受けることになる。
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戦国の恋

足利義明の子姉妹は一度は丸山石堂寺で暮らすが、滝田城の里見義尭の側室(久留里城主勝左近真勝の娘)於勝方様が哀れに思い二人の姫を滝田城に迎へました。のちに城にいた、若い義弘と姫(清岳尼)の恋が芽生えることは早かった。

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滝田城で暮らした姉妹は、やがて足利家の定めに従い鎌倉の寺に移る事になります。長女は鎌倉の太平寺の青岳尼、二女は鎌倉東慶寺尼旭山十七世となる。 

次男頼純は家臣らと石堂寺にて里見氏の庇護の元で秘かに暮らし成人します。頼純は四人の子を儲けます。長女島子、次女、国朝、頼氏、、次女は伯母東慶寺十七世に従い尼となり(鎌倉東慶寺十九世)安房を去ります。そして長女島子は喜連川城主塩谷惟久に嫁ぎますが秀吉の小田原攻撃の参陣の遅れで怒りを恐れて城から塩谷惟久が逃れてしまいます。島子は塩谷氏が二心の無い事を秀吉に願い出るが叶わず秀吉は願い出た島子が足利の血筋を引く姫君で、あまりにも美人な島子を見て、奥州平定の対応に同行させられます。その後秀吉の上洛に従い聚楽台にあがり側室になります。



足利氏名家の存続に貢献した姫様

島子姫は豊臣秀吉の側室となって足利家のお家再興を願い出て古河公方家義氏の娘〈古河公方)と石堂寺に暮らす国朝(小弓公方)に娶らせて、喜連川城主として足利家の存続をはかりました。
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戦国時代に海を越えた恋の物語を里見義弘が演じることになる。 

上杉謙信軍と里見義弘は相模の国北条氏小田原城を攻め入ります。難攻不落な城は直ぐには落とせませんでした。長期の攻めを避け、上杉謙信軍は鎌倉入りした際に、義弘は房総で知り合った初恋の人を慕い太平寺に討ち入りします。寺で久しぶりに出会った、二人は意気投合しお互いに手を取り合い海を越え房総に連れ帰り、青岳尼を還俗させて義弘の妻とする。戦国乱背の中で恋物語を演じることになります。


北条氏康の怒り

此の時に里見義弘は御本尊の立ち観音まで持ち帰りそれを知った北条氏康は怒り尼五山の太平寺を取り壊すことになりました。此の出来事で房総半島に渡った観音様は後に鎌倉の東慶寺に返され、現在でも拝観出来ます。

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2010年09月28日

玉縄桜をひろめる会 代表増田氏(当時)との出会い

玉縄桜との出会い

知人の紹介で玉縄をひろめる会当時代表であった増田さんが、お忙しい中を裂いて尋ねて下さいました。

感謝すると伴に増田さんと色々歓談をする中で、義経ゆかりある、藤原氏北家三代が栄華を極めた東北の地、中尊寺に纏わる話に及びました。鎌倉市が以前、鎌倉の桜として玉縄桜を中尊寺へ寄贈され植樹された話を伺い、平泉の中尊寺に春 一番早く満開に咲く、玉縄桜を想像すると、さぞかし寺の風格とつり合い綺麗だろうと思いました。機会があればれば是非とも中尊寺に桜を訪ねたいと思いました。

最近の話題としては、玉縄桜をひろめる会が秦野市にある頼朝の子三代将軍実朝の首塚を守る有志の皆様が鎌倉の玉縄桜を奉納し記念樹として秦野市に祀る、実朝首塚に植えたそうです。

増田さんのお話では鎌倉とゆかりある

玉縄に、ご縁の各地域に桜を普及させる運動をして、多くの人々に早咲きで長く咲き誇る花を楽しんで頂きたいとお話されました。
お話を聞いたキミジィは森づくりしている向郷は戦国時代に久留里城主里見義尭と猛将北条綱成、玉縄衆が、房総半島での戦略的に重要な久留里城(半島中心地)を巡り、幾度も戦乱があった土地と話すと


増田さんが、歴史的に悲しい出来事が有ったでしょうが、今世紀には、地域の融和と発展、交流のために、是非玉縄桜をお役に立て下さればと言って、代表から苗を寄贈して頂きました。



玉縄桜 実生の苗木と接ぎ木の苗・・・・久留里へ行くのが楽しみ 秋には久留里の森、見晴らしの良い場所に移動します 


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久留里1000年の森記念樹として秋に植え込み オヤジの
所でしばし休養中 将来 大勢の人を楽しませて下さいね!


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玉縄桜は2月〜3月ころの早咲きと比較的、花もちがよいので
久留里の皆さんに玉縄桜を楽しんでもらいたい。
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