2011年02月17日

 戦国大名武田信長・土屋景遠(平塚市土屋一族)伴い上総入り

久留里1000年の森 
           
歴史シリーズ「10」


甲斐の武田 新勢力・武田信長・土屋景遠(平塚市土屋一族)伴い上総入り 

上杉禅秀の乱(1416)室町幕府四代将軍義持の時代、鎌倉公方らと元管領上杉禅秀が管領の座を巡る争いで対峙して戦は始ります。甲斐の守護武田信満は娘が嫁ぐ上杉禅秀に加担し戦に挑みます。禅秀(上杉氏憲)は果敢に幕府軍に挑みますが、多勢の幕府軍4代将軍足利義持や駿河守護今川氏らによって鎮圧され鎌倉雪下に逃れ自害します。上杉禅秀と共に闘った武田信満は幕府軍上杉憲宗の追討を受けます。甲斐の国、都留郡に攻められて自害してしまいます。

一度は上杉禅秀に攻められ、鎌倉公方持氏が今川氏の元に逃れ、京幕府将軍に救援を訴えます。
応永4(1397)年4月16日、足利義満は将軍職を嫡子義持に譲り、京都北山に大庭園を作ることを表明します。金閣寺  

 携帯待ち受け画面に利用してください。良い事あるかもヨ〜

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将軍の命により甲斐に信満の弟穴山満春帰る

応永25年(1418)幕府六代将軍義教は不在となった甲斐守護に信満の弟穴山満春(養子)を甲斐守護に任命して甲斐へ戻します。満春は兄と共に上杉禅秀の乱で敗れて高野山に逃れ出家していましたが還俗して名を武田信元に改めます。子がいない信元は武田信長の子伊豆千代丸を養子に迎えました。 
信元は新守護になるが鎌倉公方が押す逸見氏や国人らの勢力が拡大化して甲斐の国に入る事が出来ませんでした。幕府将軍義教の計らいで信濃国守護小笠原政康が甲斐の国に入り支援体制を築き重臣跡部氏を甲斐国に留まらせて、信元が甲斐守護の座に着任するのを見届けて信濃へ帰りました。


戦国時代 武田家臣が戦いで傷付いた身体を癒しに下部温泉に来ただろうと思われます。
別の名を信玄の隠れ湯とも云われ、傷や斬り傷に良い湯で知られる温泉です。

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伊豆千代丸・甲斐の守護になれず甲斐を去る

信元は甲斐守護職に付いたが公方持氏方地頭反勢力との権力闘争の中、病に倒れ死亡してしまいます。信元の養子になった伊豆千代丸は名前を武田信高と改め、幼少の身で守護を引き継ぐ筈でしたが
幕府方後見役の小笠原氏や甲斐守護代になった跡部氏は武田信高を守護と認めませんでした。
その事態を知った武田信長が信高の甲斐守護を巡る争いに加わり応永28年(1421)信長は甲斐守護の奪還をかけて都留郡の豪傑加藤梵玄と甲斐源氏一門衆親衛隊ともいえる日一揆と共に跡部親子に荒川畔で決戦を挑みます。
跡部氏方は輪宝一揆(於曽氏)や公方持氏方逸見氏(武田一族)と結んで、信長と9年にわたり対決する事となりますが、跡部氏や逸見氏を倒せずに敗れてしまい、武田信長は念願であった甲斐の国守護職を信高に与える事を果たせずに親子は甲斐を去りました。 

 戦国時代に穴山梅雪が病の祈願に社澱をまつりました

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信長の兄高野山から甲斐に帰る

その後信長が去った甲斐は守護不在と成ります。鎌倉公方持氏は又もや幕府将軍の了解なく、逸見氏を守護に立てようと図りますが、幕府将軍義教は、穴山満春(信元)同様に西国を放浪して高野山に出家していた信長の兄信重を許して甲斐に返し、守護職に就く事を許しました。永享10年(1438年)信重は小笠原氏や跡部氏の援助を得て入国、この時には弟信長とは異なり跡部氏は服従を誓います。信重が帰国した時期は幕府と鎌倉府の権力争いも日ごと拡大化して、幕府側も打倒公方持氏の体制を引くさなかでもありました。後に信重は幕府の要請により結城合戦に参陣します。戦国時代の武田氏の経済力を支えた金山、毛無山の下に下部温泉が有り金を掘る人々も温泉に浸かり身体を癒したと思います。


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武田信長・信高・土屋景遠・里見義実・鎌倉公方に使える

甲斐を去った信長は幕府の庇護で駿河国で領土を貰い、隠遁生活を過しますが、結城合戦などの活躍で相模の国西武に所領を得幕府方として活躍してゆきます。宝徳元年(1449)9月に越後守護上杉の計らいで幕府将軍より許された鎌倉公方足利成氏が復帰すると、信長は幕府の命に従い鎌倉御所へ仕えます。以後は甲斐国守護に付いた兄信重の国政に関与する事なく、成氏方の重臣となり公方を支えます。
1455年、享徳の乱では結城氏・武田信長・里見義実らが管領上杉憲忠を暗殺し幕府も巻き込み幕府・上杉方と公方成氏の間で合戦が繰り広げられ、三十余年にわたって東国は戦乱期を向える事になります。

鶴岡八幡宮若宮

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幕府・上杉らの領地の奪還を掛け関東各地を古河公方成氏と転戦

武田信長、信高親子・土屋景遠・里見義実らと共に古河公方成氏方に属し関東各地を転戦し、戦功を上げて古河公方成氏より厚い信頼を得て、康正二年(1456)武田右馬助信長は上総国守護代に命じられ、子の信高と土屋景遠、禅秀の乱で国を追われた、相模国の武士らも土屋景遠に従い上総へ侵攻したと思われます。同じ時期に里見義実は安房国に入ります。義実は武田信長の娘を嫁とし姻戚でもありました。安房入りした義実は武田一族との協力体制を築き安房土を拡大して、幕府・上杉方の攻防に備え房総の守りを固めます。

禅秀の乱(1416)にて武田・土屋氏親子ともに戦う

武田信長に使える景遠は平氏の家系で桓武平氏の一つ 高望王の系譜で平良文を祖とする。 相模国の大住 郡土屋(現神奈川県平塚市)を治める豪族で鎌倉幕府誕生に係わる名門武将の家柄でもありました。禅秀の乱では幕府・鎌倉公方持氏と戦い、甲斐守護武田信満・信長と同盟を結び土屋氏遠・景遠親子・親族土肥氏も上杉禅秀側について戦いました。この戦で禅秀側に付いた理由の一つに武田信満の娘が禅秀に嫁ぎ、信長の嫁は景遠の妹、こうした親族の交わりもありました。そして信長と景遠(妹)の子供が伊豆千代丸(信高)でありました。土屋景遠は鶴岡八幡宮神主大伴時連の娘を正室とし子には土屋勝遠がおりましたが、幼い勝遠は難を逃れ甲斐に渡り成長します。そして甲斐武田の重鎮の家系を築きます。土屋景遠は戦に敗れ大住 郡(平塚)を去ります。親族の土肥氏は伊豆の領土を没収されました。父土屋氏遠は自害してはてます。景遠は信長を主君として行動を共にして房総に渡ります。 
鎌倉長谷寺
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上総の国 久留里城

上総武田氏の祖、武田信長が翌康正2年(1456年)に築城した現在の城地の北方500mほどの峰続きに築城し三男信房が城主になったと伝わります。


☆土屋景遠の子土屋勝遠は甲斐で育ち、甲斐武田氏の武田信昌の娘を娶り武田家の重臣となります。

☆ 勝遠の孫は信玄の父親武田信虎を駿河今川氏に預ける(1480〜1540)際に付き添った
家老土屋昌遠でもあります。
exclamation 徳川時代に久留里城主になった土屋忠直氏は家系のうえで土屋景遠に繋がっております。


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武田信長・房総に入り、勢力拡大し房総武田の祖となる

上総に入った信長は庁南・真理谷の二城を築いて上杉方の攻めに備えます。庁南城は上総東地域の守りとし、真理谷城は上総西部の守りを固め、さらに久留里や椎津・造南・峰上・笹子などに城を築いて、武田・土屋の家臣諸将が城主となり城に入り、上総の新体制を確立していきます。真理谷城には嫡男の信高を入れ、信長は庁南城を主城とし上総に移住し上総武田氏の祖となったのであります。このころ、信長は七十歳以上に達していたようで隠居し、文明九年(1477〜)長寿で没した。信高も翌年に父を追うように死去しました。信高のあと長男道信は庁南武田氏、弟信興が真里谷氏と呼ばれようになりました。
久留里城には信長の三男信房が入ったと伝えられます。


久留里城天守閣から見る 久留里の田園風景、武田氏の後に里見義堯が新たに現在の城地に築きました。

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