2011年01月20日

千葉氏・房総内乱・戦国時代

久留里1000年の森 歴史

千葉一族・房総・戦国内乱 歴史シリーズ「9」

上総介千葉胤将が亡くなると千葉氏一族内乱が起きます。
足利成氏方・17代当主上総介千葉胤将が享徳3年6月23日(1454)病死したため、16代胤直は胤将の義理の弟を18代当主胤宣とします。胤宣は幼年の為、父親、前当主胤直は守護職を代行します。
直後に享徳3年(1454年)、足利成氏方、結城成朝、武田信長、里見義実、印東式部、らが上杉の館を襲うともに鎌倉御所にて上杉憲忠殺傷事件が起こります。千葉胤直は幕府から依頼を受けて上杉氏らと成氏討伐に乗りだします。これに対抗する勢力で成氏方馬加康胤(千葉諸氏)は成氏支援を主張して、千葉一族の内紛が勃発します


千葉氏宗家の滅亡

これと同じく千葉宗家、胤直の家臣、筆頭家老円城寺氏と家老原氏らが領土を巡る対立が絡んで、千葉宗家を二分した複雑な家臣同志の争いでもありました。そして成氏支持を唱える馬加康胤と原胤房らが謀叛をおこします。千葉介胤直の本拠千葉城(亥鼻城)に夜襲攻撃を仕掛けます。不意を突かれた胤直・胤宣父子は防戦叶わず城を逃れます。胤直、胤宣、親子は千田庄、円城寺氏の多古城へ逃れて、援軍上杉軍の救援を待ち籠城して戦います。戦力に勝る馬加康胤は成氏方援軍も加わり、円城寺尚任の多古城を攻め、落城させます。同年8月12日に、近くの阿弥陀堂に逃れ胤宣は切腹します。そして胤直兄弟が逃れた志摩城も原胤房軍の総攻撃のまえに防戦かなわず城は堕ちて胤直は土橋の如来堂に逃れたが8月18日その如来堂で自刃します。胤賢は城が落ちると子らと脱しつ(千葉実胤、自胤 )を逃がして小堤城(横芝町)に逃れ9月7日に至って宗家一族郎党が討ち死にしたのであった。

馬加康胤・千葉氏宗家を名乗る

その後に馬加康胤は古河公方成氏の求めに従い千葉介を名乗ります。
馬加康胤は下総千葉氏の頭領の坐を手にすることが出来たのである。原胤房も康胤を主とし成氏方として松戸の小金城城主に移ります



幕府将軍義政は常縁を追討軍とし千葉康胤と原胤房氏破る


事件を知った、室町幕府将軍義政は千葉氏の同族である奉公衆東常縁(千葉胤常の六男を祖先とする)が御教書を戴き、副将として浜民部少輔春利を伴って下総東庄に下向しました。
馬加康胤と原胤房討伐する為、兵力を故郷千葉県香取郡東庄町にて結集させ、東常縁は上杉軍の戦力と合わせ同族の国分・大須賀・相馬氏など下総の兵を動員して康正元年(1455)11月印旛郡佐倉城を攻め落とします。康胤・胤房らの防戦もむなしく敗れて千葉城に逃がれます。常縁軍は上杉軍と共に千葉城を総攻撃で攻めます。東軍の攻撃は激しく原胤房は城より逃れます。
そして翌康正2年4月には(1456)、軍勢の立て直しを図った康胤は上総の八幡郷(市原市八幡)にて防戦するが馬加康胤、胤持父子はついに、追いつめられ村田川のほとりで自刃します。


千葉康胤の意思を継ぎ成氏方の武将千葉孝胤となる。

千葉康胤(馬加康胤)の滅亡後、古河公方足利成氏の介入によって千葉孝胤が千葉氏の当主である名乗りを上げます。孝胤は印東庄岩橋村(現在の千葉県印旛郡酒々井町)付近を領有した岩橋氏は(輔胤は馬加康胤の庶子を名乗り)孝胤は文明3年頃に父輔胤が出家し家督を引き継ぎます。孝胤は千葉康胤亡き後に古河公方成氏が下総千葉氏主家を認め本佐倉城(現在の酒々井町)を築城して下総支配の根拠とし、公方側に付き下総で古河公方を支える事になります。

千葉一族の勢力弱まる

一方の幕府は・東常縁・上杉氏が推す千葉宗家は胤直、弟胤賢の逃れた子兄弟実胤、自胤を推すことになります。そして上杉の庇護下で武蔵千葉氏となります。こうして千葉氏を名乗る一族は上杉方と古河公方側に属して別れます。後に千葉孝胤房は大田道灌に境根原合戦で破れ臼井城に逃れる此の戦で、道灌は弟で片腕太田図書を死亡させます。そして此の戦では武蔵千葉自胤が臼井城を奪い取りました。房総半島の豪族千葉氏も戦国期には内乱を繰り返して戦い、弱体化して行きます。/strong>

東常縁美濃国帰る

東常縁は将軍足利義政の命により、宗家千葉胤賢の遺児千葉実胤と自胤兄弟を上杉氏と共に支援し関東を転戦して千葉孝胤らの領土奪還を目論み戦うが幕府に対抗する古河公方足利成氏が常縁に敵対的な介入を受け阻止されると共に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領である美濃国郡上を守護土岐成頼の守護代斎藤妙椿に奪われました。東氏の当主氏数は篠脇城を守って戦ったが、落城し東氏数は城を脱出しのがれます。この事件を知った常縁は所領郡上は十代に渡って祖先が築いた土地であり、奪還を図りに西国へ帰還しました。

東常縁とは別の道 

副将浜民部少輔春利名を改め 酒井治敏を名乗ります。治敏の子が定隆で房総酒井氏の祖になったとされる。東常縁と共に馬加康胤や原胤房を討伐で常縁に従った酒井治敏 定隆親子は古河公方足利成氏の介入によって馬加康胤の庶子である千葉孝胤が千葉氏の当主となり、常縁・上杉氏が支援する千葉実胤、自胤兄弟は千葉宗家の領土を奪還する事が出来ず古河公方との争いに阻まれ千葉宗家の討伐は事実上の敗北に終わります。

応仁の乱にて房総に留まる。


京幕府での応仁の乱によって幕府の権威は失墜してしまいます。この様な出来事を見た酒井治敏は幕府の将来に見切りを付けて常縁の帰国には同行しませんでした。この時に治敏は東金に陣を引きこの地域に勢力を持つようになっていました。親子は幕府を離脱して古河公方成氏方の武将となります。成氏の命によって上杉氏の勢力の強い上総北部の守りを命じられて房総半島の防衛に携わります。
長享2年(1448年)、上総土気城に入り、ここを根拠に勢力を拡大し、続いて東金城を占領して築いていきます。


房総土岐氏


房総上総に応永19年(1412年)は、土岐時政が摂津国富山城から移り上総国夷隅郡に移住して万喜城を築城します。土岐氏も、この時代は里見や武田らと共に古河公方に付き、後に里見氏と姻戚関係を築くことになります。