2011年03月04日

幕府に貢献した上総地方

久留里1000年の森 地方の歴史シリ―ズ(6)」観光ガイド


鎌倉幕府 樹立に貢献した上総の国



相模の国での領土争いが引き金となり、相模の国 平氏一族が頼朝を使い、鎌倉幕府を打ち立てる構想で戦ははじまります。この時代東国に暮らした平氏は、都で暮らす平氏一族と差別されたようで、こうした反発と領土の不平を唱えた豪族らの紛争から起きた出来ごとでもありました。この争いは頼朝の父義朝の時代から続く領土の争いでもありました。

相模国の争いでは、源頼朝は、石橋山で豪族大庭影親に敗れ、相模国豪族、平一族の中村氏二男の土肥実平らと共に伊豆の海岸より小舟で安房へ逃れました。

相模の国 豪族大庭影親や梶原景時らも桓武天皇の血筋を引く平氏の一族でもありました。

石垣山より相模から房総半島を眺める
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その後に豪族三浦、和田、土屋氏と合流して、安西影益をはじめ小山・下河辺・豊島・葛西らに協力を要請して下総の豪族平一族の千葉介常胤親子に助けられて兵力を増して行きました。千葉一族の安西氏もやはり桓武天皇血筋を引く平氏一族でした  

早川海岸からこの海を頼朝は房総に向け渡りました
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上総や下総の豪族平氏が鎌倉幕府樹立に大いに貢献しました。房総半島で協力した千葉氏も相模の国平一族と祖先を同じくする人々でした。
上総地方の名将上総介平広常が、一族、家来17000を引き連れて、頼朝に加わった出来事が引き金ねとなって、関東の多くの豪族は我先にと家臣団に加わり、途中で頼朝に服従した畠山重忠などは、先祖の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせました。
重忠は先陣を命じられて相模国へ、頼朝の大軍は房総半島より抵抗を受けることなく進軍しました。
頼朝が鎌倉入りする際には三万とか五万の大軍団を率いて、鎌倉幕府を築くことが出来ました。


頼朝が祭られている白旗神社
白旗の名称は、源氏の白旗にちなむものと言われております。

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この偉業を果たした上総久留里地方の人々も鎌倉に出向いたでしょう。上総介広常が初期の上総の地方長官に任命を受けました。しかし鎌倉に上洛してから三年の後に頼朝の誤解にて失脚して、梶原景時によって暗殺されました。

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上総介広常が亡くなった後は、上総守護は和田義盛や上総介千葉常秀が支配して(宝治合戦)後には上総介足利氏の所領に移り代わります。