2011年02月19日

室町時代と房総半島の歴史

久留里1000年の森   歴史シリーズ(7)  観光ガイド

房総半島、上総、下総、安房地方にも戦国時代の波が押し寄せる
「 戦国時代の到来」


室町幕府の中期、京の都1425年、5代将軍義量が父義持に先立って早世してしまいます享年19、病死でした。義量には嗣子が無かったため、父の元将軍義持が将軍職を代行して政務を執ることになります。1428年には4代将軍義持も病死します。将軍職が空位となると、将軍職相続に叔父義持の猶子となっていた鎌倉公方持氏が六代将軍の座を望みますが、管領の畠山満家や京都重臣が是を認めませんでした。
そして四代将軍義持の弟を僧から還俗させて、将軍職を受けることを管領畠山氏らが願い出ます。
是を受ける、四代将軍義持の弟義宣は名を義教に改めて、六代将軍足利義教となります。


京の都で新しい四代将軍義持が誕生しました。
征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた、田村麻呂ゆかりの清水寺
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足利持氏将軍に任命ならず

元将軍義持の猶子である持氏は「叔父義持と将軍職で何らかの約束事が有ったのか知れません」不満を持ち反発します。新将軍の義教を還俗将軍と呼び義教の将軍就任、祝いの使者も送りませんでした。さらに元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け新年号を無視してしまいます。
そして本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を鮮明に見せ始めました。当時、関東地方管領職は将軍が任命権者であり上杉憲実に任命されて居りました。


足利義満の五山制度により鎌倉五山第一位 持氏は義満の取り決め破る
                                    鎌倉建長寺
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管領上杉憲実と争いを起こす
幕府将軍義教と鎌倉府公方持氏の狭間で執務する管領上杉憲実は仲に入り苦心し幕府からの指示を守るよう説得するが持氏は鎌倉府の独授制を唱え聞き入れませんでした。
幕府方との亀裂はより一層深刻となり、事態の修復に奔走し努力する上杉憲実とも次第に不仲になります。1438年八月持氏は幕府と管領に逆恨みして、上杉憲実追討の兵を挙げてしまいます。
管領上杉氏を支援する幕府将軍義教は以前から持氏を苦々しく思っていたので是を好機と捉えて公方持氏討伐を実行させました。



「永享の乱」鎌倉公方足利持氏を支持する武士団と幕府軍、管領を支える武将らが対峙することになります。
関東は戦国の動乱期を迎える事となります。
幕府方管領との戦が始まります。その最中に鎌倉公方持氏は重臣の三浦時高、千葉胤直らが将軍義教と内通し幕府方に寝返られ、鎌倉御所の警備役にあった三浦時高は裏切って、鎌倉へ攻め入り御所に火を掛けます。この裏切りは持氏にとって致命的な打撃となりました。
相模国で幕府軍と持氏軍が激戦となりました。幕府方の討伐軍は持氏軍を箱根山・風祭・早川尻で戦で敗れて逃れて海老名本陣へ帰り際に相模国葛原で幕府の差し向けた、大将長尾入道討伐軍に遭遇し攻められ捉えられてしまいます。


箱根 持氏幕府軍に箱根風祭早川尻で戦に敗れる

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持氏幕府によって自害に追い込まれる
持氏方の大将一色直兼、上杉憲直 浅羽下総守らは武蔵国金沢 称名寺で1438年12月13日)念仏を唱え刺し違えて自害します。
此の出来事で持氏、適男義久は孤立し武蔵国金沢称名寺に退いて剃髪して僧となる事で、許しを願い出ますが、幕府将軍義教はこれを許されず、翌年に持氏は鎌倉永安寺に身柄を移し自害させられました。適男義久は鎌倉報国寺にて自害します。

鎌倉の夕日   鎌倉公方足利持氏は滅亡する事になります。  

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これに従い奉公衆であった印東、木内、神崎氏などは持氏に従い殉職する事となります。

(関東に於ける室町時代の歴史背景が房総半島に係わって来る事になります。)
posted by キミジィ at 15:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代房総に迫る(7)